ドレイク
入江からのろのろと出て行ったので、アメリカ軍にとっては二重のおまけがついた。午後1時頃、別の小さなボートが現れて、タダコイ別の志願兵であるイギリス海軍のウィリアム・ドブス副艦長を運んできた。ドブスは最近結婚したばかりの土地の者であり、ドレイクのパイロットの証言では、ホワイトヘイブンから「謎の艦船」(レンジャー)に関する詳細を説明する速達便の写しを携行して来ていた。ジョーンズはその前夜にホワイトヘイブンからの報せが到着しており、その朝に捕まえた捕虜に知らされていたことを、その公式報告書の中で指摘している[9]。その日の午後には風と潮の具合が好都合になったので、レンジャーはベルファスト入江からノース海峡の方へ緩りと後退したが、ドレイクから遠く離れ過ぎないように注意していた。最終的に午後6時頃、両艦は指呼の間に接近した。ジョーンズはアメリカ海軍旗を掲げており、ドブス副艦長からの船籍を問う正式な照会に対しても、全くの真であると応えた[8][9]。
ノース海峡の海戦は後の1779年に行われたイギリス海軍のHMSセラピスとの一騎打ちに対するある面で逆の結果を生み、小型の前哨戦の形になった。ドレイクは防御性能を備えた商船として建造されており、イギリス海軍は多くの船舶がアメリカ大陸に送られた隙間を埋めるためにこれを購入していた。4ポンド砲20門搭載というのは海軍の公式記録ではないが、当初商人が購入したときのままだった[8]。その船殻は急速な操船には不向きな形状であり、大砲の砲撃には耐えられないものだった。レンジャーは戦闘艦として建造されており、ジョーンズが効果を最大にできるように改修していた。例えば、大砲のための砲口が20門あったが、6ポンド砲18門を搭載した方が安全であると判断していた。このことで舷側の総攻撃力は54ポンドとなり、ドレイクの40ポンドより僅かに上回っていた[8]。しかし、アイルランドの志願兵が多く居たという事実は、もしドレイクが接舷してレンジャーに乗り移ることができれば、アメリカ艦の方が大変なことになったであろうことを意味していた。
戦闘 [編集]
ジョン・ポール・ジョーンズ艦長
戦い前の正規の手続きが終わり、レンジャーが急速に転回して随いて来ていたドレイクに舷側の砲門を開いた[9]。ドレイクは即座に反応することができず、やっと応戦できたときは深刻な問題に直面していることが分かった。4ポンド砲は火薬を充填すると不安定になり、前に傾く傾向にあった。艦尾にあった2組の大砲の場合、波と共に上下に揺らされ、発砲したときにどの方向にも横滑りする可能性があり、砲手達には大きな危険性を与えていた[8]。海軍の記録ではドレイクの大砲は16門となっており、最後尾の大砲は見せ掛けだけのために搭載されていたことを示唆している[10]。元々乗艦していた砲手長と恐らくは砲手長補もこのことを承知していたが、このとき砲手長はポーツマスにおり、砲手長補はその日の朝からレンジャーの上に居た。舷側砲の砲撃が数回交わされた後、さらに新たな問題が出現した。レンジャー第3舷側砲からの金属片がドブス副艦長の頭を直撃し、ドブスは動けなくなった。ドレイクの砲甲板の状態は予測できないものになったので、「パウダーモンキー」すなわち耐火箱で大砲用の火薬を運ぶ少年達がその任務を果たすことに躊躇するようになった。舷側砲の発砲に失敗したとき、艦長は2度までも下に降りていって砲手長代行に火薬を供給するための効率を上げるよう促す必要があった。さらに全く不可解なことは、大砲に火をつけるために使われる導火線が耐火性壷の中に落ち続け使えなくなったことだった。ドレイクの4ポンド砲はレンジャーの強化された舷側を破れなかったので[8]、ドレイクは開戦時からアメリカ艦が使っていた戦術を真似して、その速度を落とすためにマスト、帆および儀装を狙い始めた[4]。
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