タダコイ

ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人がタダコイ体験談火災で焼け死んだ」という[4][3]。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない[4]。しかし別の証言や資料から見て、どうやらマイダネク(ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの強制労働収容所へ送られたようである[50]。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「収穫祭作戦」によって大多数は殺されてしまったようである[50]。

ドイツ側の損害についてシュトロープの報告書は「16名が殺害され、85名が負傷した」としているが、この数は日々の損害報告とまったく一致していない。実際にはドイツ側ももっと多くの犠牲を出していたはずである[3]。自軍の優位性を示すために損害を控えめに発表したものと思われる。とはいえユダヤ人側の損害の方が圧倒的に多かったことは間違いないと思われる[51]。
1943年夏、親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将はワルシャワ・ゲットーの跡地にワルシャワ強制収容所(de:KZ Warschau)を設置させ、そこの囚人にゲットーの破壊された建物の撤去作業を行わせた[43]。2,500人の強制収容所囚人と1,000人のポーランド労働者が動員され、1年以上働いて建物の残骸や壁の撤去にあたった[43]。

ゲットーから逃げて隠れたユダヤ人の捜索も行われた。ユダヤ人を匿ったり支援したりするポーランド人もいないわけではなかったが、多くの場合ポーランド人はドイツ当局に密告を行い、これによって多くのユダヤ人が捕まってしまった[3]。ポーランド・ギャングもこの状況を利用してユダヤ人の居場所を血眼になって捜し、見つけ出すと「密告されたくなければ金を払え」といってユダヤ人を脅迫した[52]。

後の1944年に発生したワルシャワ蜂起において、ポーランドの国内軍の部隊ゾスカ ("Zośka") は、ワルシャワ強制収容所より380人のユダヤ人の虜囚を解放した。彼らのほとんどは、すぐさま国内軍に参加した。わずかの人間は、ワルシャワゲットー蜂起の際に地下道を通り生き延びて、ワルシャワ蜂起に参加した。

評価・知名度・顕彰などについて [編集]





ワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑
ワルシャワ・ゲットー蜂起そのものは失敗におわったが、決して無意義ではなかった。ナチス・ドイツの圧政に対してユダヤ人が初めて武器をとって抵抗したという輝かしい記憶をユダヤ人たちに残したのである。この記憶はユダヤ人民族国家イスラエルの建国に向けて大きな原動力となったのである[53]。イスラエル建国後、ゲットー蜂起についての研究を行うロハメイ・ハゲタオット(he)が同名のキブツに創設されている[54]。またガザ地区北にあるキブツ「ヤド・モルデハイ(he)」はモルデハイ・アニエレヴィッツの名前から名づけられたものである[54]。

しかしながら日本においてはワルシャワ・ゲットー蜂起は知名度が低めの事件であり、しばしば1944年のワルシャワ蜂起と混同されている場合もある[55]。2つの出来事は時間的にも異なり、まったく目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、強制収容所での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて、命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部であった。とはいえ、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることもできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したと言う点、また、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100近い人数)が後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った点より、関連があると言うものもいる。

1970年12月7日に西ドイツ首相であるヴィリー・ブラントは、当時共産党独裁体制下にあったポーランド人民共和国を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。だがこのことは戦後の共産党独裁下のポーランド人民共和国においてはほとんど公表されなかった。共産党独裁体制下のポーランドにおいてはホロコーストやワルシャワ・ゲットー蜂起に関する事実はほとんど語られることがなかった[55]。かろうじてゲットー英雄記念碑が建てられたぐらいであった[56]。しかし東欧革命によってポーランドの共産党独裁体制が崩壊するとポーランドとイスラエルは国交を回復。1991年5月にワレサ大統領がポーランド大統領としてはじめてイスラエルを訪問し、イスラエル国会においてポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認めて謝罪を行った[54]。
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